Captured Economy
策が誰に捕捉されているかを問う視点
世界各国で産業政策が再び盛り上がり、日本でも半導体や脱炭素、防衛といった領域で産業政策が走りつつあります。これは悪いことではなく、安全保障や外部性、長期投資、不確実性が大きい分野では、民間企業だけに任せていては必要な投資が起きないことがあります。
しかし政府が市場に戻る時代には、別の問いが必要になってきます。その政策が、本当に公共目的のために設計されているのか、それとも既存企業や専門職団体などの、すでに力を持つ人々、いわば既得権益者層に『捕捉』される経済になっていないかどうか、です。
ここで参考になる概念が、Captured Economyです。
Captured Economyとは、直訳すれば「捕捉された経済」です。
何が「捕捉」されているのかといえば、規制、補助金、免許、知的財産、土地利用、金融のセーフティネットといった、経済のルールを決める政策過程です。
富裕層や専門職、既存企業や業界団体など、すでに資源と発言力を持つ人々が政策形成に強い影響を与え、自らに有利な制度を作り、そのコストを消費者、納税者、新規参入者、若年層、地域外の人々に負わせていくようなことが横行しているのではないか。これがCaptured Economyという概念が出てきた背景にある問題意識と言えるでしょう。
この概念を現代的な「格差論」として広めたのが、Niskanen CenterのBrink Lindsey と Steven M. Teles の2017年の著作『The Captured Economy』です。彼らは、米国で同時に進んだ成長鈍化と格差拡大を、単純な「市場原理の暴走」や「政府の肥大化」だけではなく、民主的統治の機能不全によって、富裕な特殊利益が政策過程を捕捉し、逆進的な規制を増やしてきたことに注目します。
重要なのは、この議論が単なる規制緩和論ではないことです。問題は「規制が多いか少ないか」ではなく、問うべきなのは、その規制や補助が、誰のために設計され、誰に負担を押しつけ、誰の参入を妨げているのかです。
当然ながら、産業政策、安全規制、医療資格、知的財産、金融規制、環境規制には、それぞれ正当な公共目的があります。
しかし、公共目的として始まった制度が、時間とともに既存プレイヤーの保護装置へ変わることがあります。その瞬間、規制は公共財ではなく、政治的に守られたレントになってしまう。そうした状況を避けるために、私たちは今起こっていることを認識するための道具立てがより必要になってきていると言えます。
規制の虜から、経済の虜へ
Captured Economyという言葉は比較的新しいものですが、背後にある考え方は古くからあります。
一つの源流は、ノーベル経済学賞を受賞したGeorge J. Stiglerの規制論です。Stiglerの論文「The Theory of Economic Regulation」は、規制を「公共利益を実現する中立的な手段」としてではなく、産業や職業集団が公的権限を利用して自らの利益を高める過程として分析しました。この考えは、おそらくCaptured Economyの名前の源流になった「規制の虜(Regulatory Capture)」(利害関係のある業界(被規制者)の強い影響力を受け、結果として、業界の利益を優先した規制や政策を行うようになってしまう現象)の分析に繋がっています。
もう一つの源流が、Anne O. Kruegerの論文「The Political Economy of the Rent-Seeking Society」です。レントシーキングとは、生産性を高めるのではなく、政府が作る許認可、制限、補助、独占的地位を獲得することで利益を得ようとする行動です。社会全体の富を増やす競争ではなく、すでにある富の分け前を政治的に奪い合う競争だと言ってよいでしょう。
OECDも、これに近い概念として『Preventing Policy Capture』で政策の捕捉(policy capture)を論じています。そこでは、公共政策上の意思決定が、公共利益から特定利益へと継続的・反復的に逸れていく現象が、格差、民主的価値、経済成長、政府への信頼を損ないうると説明されています。
Captured Economy論の特徴は、こうした規制の虜論やレントシーキング論を、規制の問題にとどめず、経済の問題に接続した点にあります。特に現代の格差論と成長論に接続したところがユニークだと言えるでしょう。政策の捕捉が積み重なると、経済全体の資源配分が歪み、起業や移動や発明が妨げられ、成長の果実が経済の上層に偏っていく、というのがCaptured Economyの論点です。
4つの典型的な領域
LindseyとTelesが重視した代表的な領域は、
金融
知的財産
職業免許
土地利用規制
の4つです。Niskanen CenterのCaptured Economy関連プロジェクトでも、金融、医療、住宅、知的財産などの政策領域で、規制捕捉が資源配分の歪みを生んでいると整理されています。
1つめが金融です。金融部門では、預金保険、中央銀行へのアクセス、暗黙の救済期待、税制上の債務優遇などが、金融機関に過剰なリスクを取らせる誘因になる場合があります。ここでの論点は、「金融規制が多すぎたから悪い」でも「規制緩和だけが悪い」でもなく、損失の一部が社会化される一方で、利益が民間に集中する制度設計です。セーフティネットを持つ金融業者が、過度なレバレッジとリスクテイクを行えるとき、それは市場競争ではなく、政策によって支えられた非対称な賭けになります。
2つめが知的財産です。特許や著作権は、発明や創作へのインセンティブとして重要です。しかし『The Captured Economy』の知的財産論が指摘するように、保護範囲や期間が過度に広がると、消費者価格を上げるだけでなく、後続のイノベーターに高い入力コストを課すことがあります。知財は本来、一時的な独占によって新しい創造を促す仕組みですが、それが過剰に拡張されれば、新しい創造を妨げる壁にもなります。
3つめが職業免許です。医師、看護師、建築士のように、資格制度が安全や品質を守る領域はあります。しかし、免許制度が広がりすぎると、既存従事者の賃金や地位を守る一方で、新規参入者を締め出し、消費者価格を上げることがあります。Brookingsの職業免許に関する整理では、米国で免許対象労働者の比率が1950年代の約5%から、今日では約25%にまで拡大したとされています。
4つめが土地利用規制です。住宅を建てにくくするゾーニングや地域住民の拒否権は、高生産性都市への移動を妨げ、住宅価格を押し上げます。Chang-Tai HsiehとEnrico Morettiの論文「Housing Constraints and Spatial Misallocation」は、ニューヨークやサンフランシスコ湾岸のような高生産性都市の住宅供給制約が労働移動を妨げ、1964年から2009年までの米国総成長を36%低下させたと推計しました。
ただし、この土地利用規制論には実証上の論争があります。Brian Greaneyの2026年のコメント論文が公刊されるなど、Hsieh-Moretti推計の扱いには慎重さも必要です。とはいえ、仮に36%という数字に幅があるとしても、住宅供給制約が都市の機会、移動、家計負担、世代間格差に大きな影響を持つという問題意識そのものは継続します。
こうした4つの領域でCaptured Economyが起こり、格差や成長阻害が起こっている、というのがCaptured Economyの論者たちの認識です。
この議論への批判
もちろん、Captured Economy論には批判もあります。
第一の批判は、リバタリアン的な小さな政府論からです。Ilya SominはCato Unboundの論考「Uncapturing the Economy Requires Limiting Government」で、LindseyとTelesの診断を高く評価しつつも、政策捕捉を本気で防ぐには、政府をより透明にするだけでは不十分で、政府の範囲そのものを小さくし、分権化する必要があると論じました。政府が扱う領域が広く複雑であるほど、有権者は監視しにくくなり、専門的利益団体が入り込みやすくなる、というのが反論の要点です。
第二の批判は、進歩派・制度派からです。Mike Konczalのレビュー「Getting Beyond Getting Government Out of the Way」は、金融のような領域では「政府を邪魔者として取り除く」という発想だけでは不十分だと批判します。市場は自然に存在するものではなく、法、規制、監督、破綻処理、情報開示、消費者保護によって構造化されている。したがって、問題は政府の介入そのものではなく、どのような市場構造を設計するかだというわけです。
第三の批判は、実証と規範の両面からです。土地利用規制の成長損失推計には幅がありますし、職業免許や知的財産には消費者保護、品質保証、安全、研究開発インセンティブという正当な目的があります。すべての制度的介入を「レント」と呼んでしまえば、政府が供給すべき公共財や、安全保障上必要な国家能力まで弱める危険があります。よって、すべてをCaptured Economyだと否定するのは筋が良くない、という論です。
これらの反論には一定の説得力があります。よってある意味で、Captured Economy論は、政府関与を一括して否定するための武器ではなく、むしろ、政府関与が既存の強者に捕捉されていないかを点検するための道具としての位置づけのほうが健全でしょう。
Captured Economyを見分ける問い
そうした意味で、Captured Economy論を実務的に使うなら、特定の制度を見たときに、少なくとも5つの問いが有効でしょう。
誰が直接利益を得るのか: 既存企業、専門職団体、地権者、金融機関など
誰がコストを負担しているのか: 消費者、納税者、新規参入者、若年層、地域外住民
その制度は競争や参入を妨げていないか
補助や保護に明確な期限、成果条件、退出ルールがあるか
受益者、選定理由、評価指標、議事録が公開され、独立した評価が行われているか
この五つの問いを通すと、Captured Economy論が単なる反規制論ではないことが分かります。むしろそれは、政策の「量」ではなく、政策の「向き」と「耐久性」を問う視点です。公共目的のための一時的な支援なのか、それとも、政治的に守られた恒久的な特権を作ろうとしているのかを区別して考えていく必要があります。
産業政策の時代に、なぜこの概念が重要なのか
この Captured Economy の視点は、いま改めて重要になっています。半導体、防衛、AI、脱炭素、医薬品、重要鉱物など、各国で政府が市場形成に深く関与する領域が増えているからです。日本でも半導体やAI、防衛や脱炭素などで様々な産業政策が走っています。
これらを直ちにCaptured Economyだと断定すべきではないとも思います。半導体、脱炭素、防衛、医薬品のような領域では、民間だけでは投資しにくい不確実性や外部性があり、政府支援が必要になる場合があります。安全保障上、国内に一定の供給能力を持つことが望ましい分野もあるでしょう。
しかし、だからこそ、Captured Economy論の点検が必要になります。大規模な補助金や保護措置が、詳細な政策設計を欠いたまま続けば、成長戦略は新しい既得権益にCaptureされて、Captured Economyを生み出すことになります。
逆に、支援対象の選定が透明で、成果条件が明確で、失敗した場合に退出でき、支援が恒久化しないのであれば、一時的なレントはイノベーションや安全保障のための誘因として正当化される場合もあります。
実際、OECDの報告書『The Return of Industrial Policies』も、環境、安全保障、包摂性などを目的とした産業政策には一定の正当化根拠がある一方で、競争を弱める措置や実装上の政治的困難には懸念があると述べています。
政府関与を否定するのではなく、捕捉されない国家能力を問う
日本では「既得権益」という言葉がよく使われます。しかしCaptured Economyが示すのは、既得権益者が単に自分たちの権益を守るだけではなく、政策過程を通じてその権益を拡張していく構造です。補助金、規制、免許、認証、税制、公共調達、審議会、出向、業界団体との調整といった制度の一つ一つは、必ずしも悪ではありません。むしろ現代国家には必要なものです。
問題は、それらが閉じたネットワークの中で運用され、既存企業や専門職団体にとって都合のよい形で固定化されることです。政府に専門人材が不足し、民間企業からの出向や業界知識に頼らざるを得ない場合、このリスクはさらに高まります。現場の知見を政府が取り込むことは必要ですが、その知見を持ち込む主体が、同時に政策の受益者でもある場合、利益相反の管理、議事録の公開、第三者評価、冷却期間、リボルビングドアへの監視などの仕組みは欠かせません。そうでなければ、「規制の虜」どころではなく、既得権益によって「虜にされた経済」になってしまう。そうした視点が得られるのが、Captured Economy論でしょう。
Captured Economy論の価値は、政府を小さくするか大きくするかという古い二分法を超えるところにあります。
問うべきなのは、「政府は誰の情報に依存し、誰を支援し、誰に説明責任を負い、失敗した政策を終わらせる能力を持っているのか」です。ある意味で、利益を追求する主体に、政府が捕捉されないような、優れた国家能力(State Capacity)が問われているとも言えます。
国家能力とは、資金を配る能力だけではありません。支援対象を選ぶ能力、成果を測る能力、民間の知識を利用しながら民間に利用されない能力、そして政策が恒久的な特権に変わる前に修正する能力でもあります。
産業政策が再び重要になり、国家が市場に戻ってくる時代だからこそ、少し間違えればCaptured Economyが生まれます。そうした観点でも、この概念が有用な時代とも言えるでしょう。











