共通善保守主義 - Common Good を求める米国保守派の潮流
Common-Good Conservatism(共通善保守主義)は、米国保守政治における新しい流れです。
近年、米国の保守派を中心に、
共通善保守主義 (Common-Good Conservatism) - パトリック・デニーン
共通善資本主義 (Common Good Capitalism) - マルコ・ルビオ
共通善立憲主義 (Common Good Constitutionalism) - エイドリアン・ヴァーミュール
といったCommon Good(共通善、公共善などと訳される)を冠した言説が増えてきています。
こうした保守の流れは、戦後保守の自由主義的側面や、近代リベラリズムが重視してきた、
自由市場
個人の自律
価値多元主義
手続き的リベラリズム
といった価値観に対して
家族
共同体
国内産業
労働の尊厳
国民的連帯
文化的継承
宗教的・道徳的秩序
といった、”保守派の重視する”Common Good”という概念を中心とする思想潮流です。
(※ここでいうリベラリズムとは、米国民主党系の「リベラル」に限られません。右派の市場自由主義、左派の進歩主義、そして価値中立的な手続きによって社会を運営できるとする近代政治秩序を含む、より広い意味でのリベラリズムのことです。)
米国保守といえばMake America Great Again (MAGA) 派が思い浮かびますが、共通善保守主義はMAGAとは少し異なります。
MAGAの大衆動員や反エリート感情、アメリカ・ファーストといった考えで共通善保守主義と重なる部分はある一方で、MAGAは反動主義的な面が強くあります。しかし新しい保守主義を模索する知識人側の動きとして、MAGA のムーブメントを活用しつつ、単なる破壊的ポピュリズムに終わらせないようにすることを考え、家族、共同体、産業、宗教、国民的連帯を中心に据えた新しい保守秩序へと理論化しようとしています。こうした知識人側の動きが Common-Good Conservatism だという位置づけになるでしょう。
ただし、思想潮流にとどまっているわけではありません。具体的な政策にもつながっています。たとえばAmerica First、労働者・製造業、国内供給網、家族政策、Big Tech規制、反「woke」行政、反トラスト強化といった形で現れています。
本稿ではこれらの流れをまとめて「Common-Good Conservatism / 共通善保守主義」と呼びます。
起源としての「死んだコンセンサス」批判とポストリベラル右派
この概念の背景のひとつには融合主義(fusionism)への反発があります。
融合主義は、冷戦期からレーガン期に形成された米国保守の思想であり、自由市場経済、社会保守、反共・国際主義的外交を束ねた保守連合です。
2016年のトランプ現象以降、米国右派の一部は、この連合が、グローバリゼーションや脱工業化、家族解体、地方共同体の衰退、進歩主義的な文化制度の拡大にうまく対応できなかった原因の1つだと見なすようになりました。
象徴的な文書が、2019年にFirst Things誌で発表された「Against the Dead Consensus(死んだコンセンサスに抗して)」です。同論考は、冷戦期の保守派の業績を認めつつも、個人の自律を過度に中心化した戦後保守が、結果として共同体や道徳的秩序を守れなかったと批判しました。
さらに同年、Sohrab Ahmariは「Against David French-ism」で、David Frenchに代表される手続き的リベラル保守を批判し、保守派は文化戦争を単なる私的信仰や市民社会の問題としてではなく、公的権力の問題として扱うべきだと論じました。
『リベラリズムはなぜ失敗したのか』が日本でも有名なPatrick Deneenもこの系譜です。Why Liberalism Failedはリベラリズムの病理を診断しましたが、「次に何をすべきかが不足している」というを指摘を受けていました。それに対応するために書かれた2023年の『Regime Change』では、啓蒙主義以降のリベラリズムが、伝統、家族、宗教、地域共同体といった「共通善」に連なる概念を崩したとして批判し、そこからアリストテレス、マキャヴェリ、バーク、ディズレーリを参照しながら、ポストリベラルの政治秩序として、共同善保守主義、混合政体、民衆の力と徳ある新エリートの結合=aristopopulism(貴族ポピュリズム)を提案しています。そしてこの『Regime Change』の第二部のタイトルが、Common-Good Conservatismになっています。
法、経済、ナショナリズムの 3 つの領域での「Common Good」
近年最も有名なCommon Goodに関する論者は、ハーバード大学ロースクールのAdrian VermeuleによるCommon Good Constitutionalism(共通善立憲主義)です。彼は2020年のAtlantic論考で、保守法学は「オリジナリズム」(憲法の条文をそれが制定・採択された当時の意味や制定・批准時の公的意味に基づいて解釈すべきだとする法解釈)を防衛的に維持するのではなく、自然法と古典的法伝統に基づく共通善立憲主義に移行すべきだと主張しました。彼にとって法の目的は、個人の自律や権力濫用の最小化ではなく、統治者が「よく統治する」ための権限を確保し、法が市民を良き習慣へ導くことと位置づけられます。
VermeuleとConor Caseyは、この構想を「古典的法伝統の中核原理を現代制度に翻訳・適用する試み」と位置づけています。なお、この共通善立憲主義は2022年に書籍としてもまとめられました。
(なお、Adrian Vermeuleは『リスクの立憲主義 権力を縛るだけでなく、生かす憲法へ』という邦訳済みの本があります。)
経済政策では、American CompassとOren Cassが存在感を示しています。Cassは、市場を有用な制度として評価しつつも、効率性だけを重視すれば、家族、共同体、国内産業、レジリエンスといった社会的条件が軽視されると論じています。彼らは、投資、関税、教育、労働、市場競争、家族支援を含む「国民的経済政策」と資本主義の再構築を保守の再建課題と見なし、保守の経済政策は「消費者としての個人」だけでなく、「労働者、親、市民、国民としての人間」を中心に再構築されるべきだと論じます。つまり、共通善保守派は「市場価格に現れない社会的費用」を問題にし、自由市場保守派は「国家介入が生む政治的費用」を問題にします。
第2次トランプ政権で2025年から国務長官を務めるMarco Rubioも、2019年に「Common Good Capitalism」を掲げ、市場は国家と国民に奉仕するための制度であり、純粋な市場原理と国益は常に一致するわけではないと述べ、従来の自由市場を是とする保守派とは異なる立場を取りました。
ナショナリズムの文脈では、Edmund Burke FoundationのNational Conservatismが共通善保守と近接します。2022年の「National Conservatism: Statement of Principles」は、独立した自己統治国家を、愛国心、宗教、家族、法の支配、責任ある市民生活を支える基礎と位置づけ、各国が国境を維持し、自国民に資する政策を採用する権利を強調しました。
ただし、保守内部にも距離があります。Heritage Foundationの一部論者は、家族や共通善を保守政治の中心に置きつつも、政府が家族、市民社会、経済を包括的に指揮する構想には警戒を示しています。Heritageの論考は、自由市場は共通善を体現する手段であり得るが、右派・左派を問わず、政府が包括的な善の構想を押し付ければ不正義を生み得ると警告しています。
なお、『これからの正義の話をしよう』で日本でも有名なMichael Sandelは、リベラルな中立性や市場社会が公共性を空洞化するといった問題意識を持ち、共通善が重要性であるといった考えがあることから、共通善保守派と一部の思想を共有しますが、Sandelの共通善は基本的に熟議や市民共和主義的であり、開かれた多元主義を重視するため、国家や法制度によって「善」を実装する共通善保守派とは立場が異なります。
反論と対立――中立性、市場、安全保障
この論には複数の方面から異論や反論が提示されています。
1つめは、国家の中立性をめぐるものです。Common-Good Conservatism の支持派は、リベラル派の言う「中立性」は実際には中立ではなく、特定の道徳観を押し広げていると見ます。そして保守派だけが「国家は中立であるべきだ」と言い続けるだけでは、家族や宗教的共同体は制度的に後退すると考え、保守こそ家族や宗教的共同体を共通善としてもっと押し出すべきだ、という論理です。
これに対して批判派は、権威主義化への危険を見ます。シカゴ大学ロースクールの教授William Baudeとハーバード大学ロースクール教授のStephen Sachsは、VermeuleのCommon Good Constitutionalismを真剣に検討したうえで、それがオリジナリズム批判、憲法解釈、政治的帰結を十分に支えられていない「運動法学」になっていると批判しました。ハーバード大学の政治哲学者だったHarvey Mansfieldも、共通善保守派が「恒久的勝利」を求める誘惑を持つとしつつ、米国政治の自由主義的伝統を全面的に忘れるべきではないと論じています。
2つめの対立点は、市場と国家です。American Compassをはじめとした経済的な共通善保守派は、消費財の安さとGDP成長だけを基準にすれば、労働者や家族、地域の安定、国家安全保障上の供給網が犠牲になると考えます。そのため「生産的市場」や家族を資本主義のより上位の目的に据えようとします。
それに対して、旧来からの保守派に位置づけられるFreedom Conservatismの声明は、繁栄の基礎を自由競争市場や所有権、契約や結社の自由に置き、新しい保守派が規制国家や保護主義へ傾くことを警戒します。 同じく保守派のCato InstituteのRyan Bourneは、ナショナル・コンサバティズムを、旧来の保守派が大事にしていた自由市場と小さな政府を放棄し、主観的な「共通善」や「国益」の名の下に、保護主義や移民制限、Big Techの解体や政府による友敵の区別を正当化する潮流だと批判しています。
3つめの対立点は、外交・安全保障です。National Conservatismは、国民国家こそ民主的説明責任と共通善の容器だと見ます。しかし、米国右派内部では、対外関与を抑制する抑制派(restrainers)、中国抑止を優先する優先派(prioritizers)、そして伝統的な優越維持派(伝統的タカ派)といった3つが競合しています。
ECFRは2026年の分析で、第2期トランプ政権の外交は安定したドクトリンというより、Vance副大統領周辺の抑制派・優先派、Rubio国務長官周辺の優越派、国防総省内の中国優先派などが競い合う構図だと描いています。そして対中強硬論のElbridge Colbyのような論者は、Common-Good的な経済ナショナリズムと対中優先戦略を接続し、中国がアジア経済を支配すれば、米国の繁栄と安全保障が損なわれると論じており、この領域では様々な立場が入り乱れています。
共通善の政策化――通商、反トラスト、AI、家族政策
Common-Good Conservatismの影響が最も見えやすいのは、2025年以降の通商・産業政策です。2025年1月のホワイトハウス「America First Trade Policy」は、通商政策を投資、生産性、産業・技術上の優位、経済安全保障、労働者・製造業者・農業者の利益に結びつけました。同年4月の相互関税措置では、貿易赤字、製造業の空洞化、重要供給網、防衛産業基盤が国家的緊急事態の文脈で語られています。これは自由貿易の効率性よりも、国民経済の統合、産業基盤、安全保障を重視する共通善保守の政策語彙と重なります。
反トラストでも同様の動きがあります。2025年4月、司法省反トラスト局のGail Slaterは「America First Antitrust Enforcement」の演説で、反トラストを消費者厚生だけでなく、労働者、中小企業、地域社会、Big Businessからの自由を守る保守的政策として位置づけました。彼女は貿易政策、規制緩和、反トラストを「忘れられた人々」のための政策パッケージとして語っています。これは、左派の反独占論と重なりつつも、文化的・国民的共同体を守る右派の語彙で再構成されている点が特徴です。
AI政策でも、公権力を用いて価値観の介入を行う動きが見られます。2025年7月のホワイトハウスAI Action Planは、連邦調達において、フロンティアLLMが「上からのイデオロギー的バイアス」から自由であるべきだとしました。同日の大統領令「Preventing Woke AI in Federal Government」は、連邦政府が真実性・正確性を犠牲にするAIモデルを調達すべきでないとし、調達条件に「Unbiased AI Principles」を組み込む方針を示しました。ここでは、国家が文化的争点に介入しないのではなく、政府の購買力を使って「中立性」を政治的に再定義する姿勢が見えます。
家族政策では、Heritage Foundationの2026年特別報告「Saving America by Saving the Family: A Foundation for the Next 250 Years」が、家族を政策の「中心的組織原理」と位置づけ、男女の結婚、子どもの権利、家庭の再建を政策パッケージとして提示しました。これは政府文書ではありませんが、Heritage FoundationのProject 2025が第二期トランプ政権の運営の基盤構築を掲げたことと合わせると、共通善保守主義の考え方が単なる評論ではなく、行政実装へと移りつつあることを示しています。
日本の対応
日本においても、米国で進むCommon-Good Conservatismが、政策課題として部分的に交差している、と見ることもできます。経済安全保障やサプライチェーン強靱化、国内産業基盤という点では、日本の政策関心とCommon-Good Conservatismの動きは一定程度重なるからです。
しかしここまで考えてきたCommon-Good Conservatismは「米国民の共通善」が基準となるものです。それは日本人の考える共通善とは異なります。たとえば、日本には「公益」「公共の福祉」「家族政策」という言葉がありますが、それらは米国のポストリベラル右派の「共通善」「福祉」「家族」と同義ではないと考えるべきでしょう。実際、この潮流の重要論者にカトリック系・キリスト教保守系が多く、共通善の語彙が自然法、カトリック社会思想、公的宗教の言語と結びついているため、その教義や社会思想が米国右派の共通善概念に影響を及ぼしていると考えられます。そのとき、お互いの「家族」という言葉の内実的な意味や習慣も異なることは容易に想像できます。単純にCommon-Good=共通善という翻訳ができたとしても、その内実の意味は異なる、ということです。
そのため、日本国内でこの概念を参照する場合、米国特有の宗教、憲法解釈、Big Tech、文化戦争の文脈を理解することが求められるように思います。つまり、アメリカ保守派による政治経済的な動きを理解するためには、「共通善」の元となる、米国の宗教的・文化的・歴史的な背景を知る必要があります。
それは日本の利益と常に整合するとは限りません。アメリカの国内供給網の強化は、日本の供給網の弱体化につながる可能性もあります。場合によっては、「米国の共通善」と「日本の共通善」の間で対立することがあるかもしれません。
こうしたことを考えると、「政治的な立場を取らない」「中立的である」といった態度を取る日本の実務家にも、この潮流はいくつかの面で影響してきます。
1つめは、既に関税等で顕在化している通商リスクです。米国の「共通善」が国内製造業、労働者、貿易赤字削減、供給網の国内化として定義される場合、日本企業は関税、現地生産要求、調達条件の変更に直面します。
2つめは、安全保障リスクです。対中優先派の議論は日本にとって中国抑止という利益を持つ一方で、防衛負担増、台湾有事対応、対中経済関係の見直しを求める圧力にもなり得ます。防衛費の増強はDefense Tech領域の機会にもなりますが、法人税や富裕層への増税などの形で現れるでしょうし、中国のサプライチェーンへの制限なども見えてきます。
3つめは、技術・AIガバナンスリスクです。米国政府調達で「反woke」「非イデオロギー性」「米国的価値」が条件化されれば、日本企業も単なる技術基準ではなく、政治的価値基準への適応を迫られる可能性があります。
米国と事業を行うのであれば、こうした思想的な理解や、米国の思想がどちらに向かうのかは、ビジネスと密接に関係してきます。
地政学リスクや地経学リスクがビジネスにおいて注目されていますが、それらがリスクとして現れてくる背景には、各国の社会思想の変遷があり、それがまさに政策へと転換されるから、という状況があります。その状況を捉えなければならないし、まさにそうした社会思想の変化が、私たちのビジネス環境を変えようとしている、ということを理解しなければならないのでしょう。
今後の論点
Common-Good Conservatismの最大の未解決問題は、「共通善」を誰が、どの制度手続きで、そしてどの程度まで定義するのかです。
共通善保守派は、既存のリベラル秩序もすでに特定の善を制度化していると見て、リベラルを批判します。一方で、旧来の保守派は、共通善の名を借りた行政権力の拡張、友敵区別、少数派権利の後退を懸念します。
そして保守派も一枚岩ではありません。安全保障の文脈を1つとっても、立場が異なります。American Compass型の経済ナショナリズム、Colby型の対中優先戦略、Rubio型の対外優越志向、Heritage型の行政実装論、Vance周辺の労働者・家族重視などがあり、言葉は重なりはしますが、外交上の結論は必ずしも同一ではありませんし、その重心は常に動きます。
こうした保守内部の緊張を見つつも、しかし共通善のような社会の基盤が今欲されていて、そうした感覚に基づく政策としての、通商政策や反トラスト、家族政策が進みつつあります。こうしたCommon-Good Conservatismが、今後のアメリカの憲法秩序、あるいは世界の市場秩序や国際秩序をどこまで変える思想なのかは、日本からも注視しておくべき動きのように思います。
そしてもし日本の保守派が米国を真似て「Common Good」を保守の連帯のために掲げるときも、その共通善とは何なのか、何を保ち守るのか、それは他国の共通善とどこまで符合し、共有できるのか、なども考えていかなければならないでしょう。その共通善の範囲によっては、国ごとに異なる共通善で対立することを是とすることにもなれば、各国が連帯できる「共通善」の構築を可能にするかもしれません。
いずれにせよ、社会思想がまさに今、世界の状況を変えつつある中で、日本からどういった思想を形作っていくかが問われているように思います。










